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第二話 日当たりのいい部屋

Penulis: 春野ケイ
last update Tanggal publikasi: 2026-10-27 11:44:42

約束は土曜の十一時、小田急線の豪徳寺駅だった。

見るだけ。決めるわけじゃない。

この三日間、そう言い聞かせてきた。断る理由なら十個は思いつく。同期で、異性で、しかも私を嫌っている人の家に住むなんて、普通に考えればありえない。なのに、十一万のユニットバスと天秤にかけるたび、断る理由のほうが少しずつ軽くなっていく。それが自分でも情けなかった。

改札を出ると、久世はもう来ていた。

グレーのパーカーにジーンズ。スーツ姿しか知らなかったから、一瞬、誰だかわからなかった。

「……早いね」

「家、近いから」

それだけ言って、歩き出す。私は半歩うしろをついていった。

商店街を抜けると、急に静かになった。生け垣の続く細い道を、自転車の親子がゆっくり追い越していく。どこかの庭で、沈丁花がまだ匂っていた。

「駅から何分?」

「八分」

「会社までは」

「乗り換え一回で、四十五分くらい」

聞けば答えが返ってくる。それ以上は返ってこない。会社の廊下と同じだ。

「ここ」

久世が足を止めたのは、黒い板塀の前だった。

古い家だった。木造の二階建てで、瓦屋根が春の日差しを鈍く跳ね返している。玄関までの短い飛び石の横に、小さな庭があった。手入れが行き届いている、というほどではないけれど、雑草はきちんと抜いてある。

「お祖母さんの家って言ってたよね」

「三年前に亡くなって、俺が継いだ」

「……そうなんだ。ごめんなさい」

「なんで謝る」

久世は鍵を回しながら、少し不思議そうな顔をした。

中は思っていたより明るかった。廊下の床板はところどころ色が違って、何度か張り替えたのがわかる。台所には使い込まれた鍋が並び、壁には手書きの予定が書きこまれたカレンダーが掛かったままだった。三年前の、十一月のページ。

私が見ているのに気づいたのか、久世が言った。

「外せなくて」

「うん」

それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。

一階には台所と居間と、久世の部屋。居間の奥は縁側になっていて、ガラス戸の向こうに庭が見える。

「部屋は二階。三つあるから、好きなのを選んで」

階段は急で、一段ごとに小さく軋んだ。

二階の廊下に、襖が三つ並んでいる。久世はいちばん奥の襖を開けた。

六畳の和室だった。南側に大きな窓があって、レースのカーテン越しに、光がまっすぐ畳の上に落ちていた。

思わず、足が止まった。

六年間、昼でも電気をつけて暮らしてきた。洗濯物は乾かないし、観葉植物は三回枯らした。朝起きて部屋が明るいかどうかなんて、もう気にもしなくなっていた。

畳の上の四角い光が、こんなに暖かそうに見えるなんて知らなかった。

「日当たり、いいだろ」

後ろで久世が言った。

「……茉莉に聞いたの?」

「何を」

「なんでもない」

今の部屋が暗いなんて、茉莉にだって話した覚えはない。偶然だ。どの部屋を見せても、同じことを言ったのだろう。

窓を開けると、さっきの沈丁花の匂いが、かすかに上がってきた。

「ひとつ聞いていい?」

「どうぞ」

「なんで、私なの」

振り返らずに聞いた。顔を見たら、聞けない気がしたから。

少し間があった。

「家は、人が住まないと傷むって。祖母がよく言ってた」

「それなら、ほかにも困ってる人はいるでしょう」

「早瀬の声がでかかったから」

答えになっていない。でも、たぶんそれが本当の理由なのだろう。たまたま聞こえてしまって、たまたま部屋が空いていた。私だから、じゃない。

わかっていたことなのに、またちくりとした。この人の前だと、わかっていることばかり確かめさせられる。

私は窓を閉めて、向き直った。

「条件があります」

「うん」

「契約書を作らせて。口約束で同居なんて、私には無理だから」

「いいよ」

「家賃も払います」

「いらないって言った」

「それも含めて、契約書に書きます」

久世はしばらく私を見ていた。それから、ふっと息をもらした。

笑ったのだと気づくまで、少しかかった。目尻が下がっていた。フロアの反対側からしか見たことのなかった顔が、手を伸ばせば届く距離にあった。

「真柴らしいな」

どういう意味、と聞き返す前に、久世はもう階段を降りはじめていた。

*

帰り際、玄関で靴を履いていると、久世がスマホを差し出してきた。

「連絡先。知らないだろ」

七年も同じ会社にいて、確かに知らなかった。用事は社内チャットで足りていたから。

QRコードを読み取ると、トーク画面に「久世怜司」の名前が出た。アイコンは、どこかの空の写真だった。

「月曜までに、草案を作ってくる」

「わかった」

「言っておくけど、細かいからね」

「知ってる」

またそれだ、と思った。

駅までの道を一人で歩いた。改札の前で、スマホが短く震えた。

『気をつけて帰れ』

それだけ。スタンプも、絵文字もない。

返事に「了解」と打ちかけて、消した。それは、向こうがいつも私に寄越す二文字だった。

『ありがとう。今日はお邪魔しました』

送信してから、電車が来るまでの三分間、私は既読がつくのをずっと見ていた。

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